Se connecter逃げるようにして天道邸を後にした足取りは、ひどくおぼつかない。
夕闇が迫る高級住宅街の静寂が、かえって耳の奥で鳴り止まない心臓の鼓動を増幅させていた。唇にはいまだ、あの甘ったるい苺の香りと、征也の熱い体温がこびりついて離れない。「……っ、ふ……っ」 不意に込み上げてきた涙を、エプロンの袖で乱暴に拭った。 最低だ。あんな屈辱的なことをされ、力でねじ伏せられたというのに、身体はまだ指先の触れた場所を熱く疼かせている。四年前、あれほど残酷に突き放されたはずなのに。無機質な番号ではなく「莉子」と名を呼ばれた瞬間に、愚かな心は歓喜に震えてしまった。***
アパートへ続くいつもの坂道が、今日だけは異様に長く感じられた。
母に、どんな顔をして会えばいいのだろう。 病状も、切羽詰まった金策のことも。すべてを調べ上げられていたという事実に、背筋が凍るような心地がした。偶然、再会したわけではないのだ。最初から、逃げ場のない檻に追い詰めるために、あの大邸宅の門は開かれていたのだ。 狭い玄関を潜り、古びた扉を閉めると、ようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。 けれど、安らぎは一瞬で打ち砕かれる。 郵便受けの中に、一通の厚い封筒が突き刺さっていた。 差出人は、派遣会社の『株式会社サクラ・サービス』。 表面には、朱筆で「親展・至急」の文字が躍っている。 震える指で封を切り、中の書類を取り出した。 そこにあったのは、以前電話で聞かされていた「専属契約」に関する正式な合意書だった。 事務的な文字が整然と並ぶその紙が、自分を縛り上げる鎖のように見えて仕方がなかった。 本来なら、派遣スタッフがクライアントと直接、このような個別契約を交わすことは異例だ。けれど、そこには「天道グループからの多額の寄付に基づく特別措置」という、権力を背景にした逃げ道のない文言が添えられていた。「時給、十倍……?」 記された金額に、息が止まる。 それは、これまでの必死な労働をあざ笑うかのような翌朝。 昨夜、征也が触れた足首の熱は、朝になっても引くどころか、皮膚の奥深くにまで根を張ったように居座っていた。鏡を見れば、首元に残された赤い刻印が、髪の隙間から鮮やかに主張している 。 家政婦の制服に着替えながら、何度も自分に言い聞かせた。 これは契約だ。母の命を救うための、対価なのだと 。 けれど、昨夜彼が跪いて私の足を冷やした際に見せた、あのひりつくような執着の眼差しが脳裏から離れない 。 一階へ降り、朝の清掃を始めようとしたその時だった。 静寂を切り裂くように、ホールにけたたましいチャイムの音が響いた。征也は既に書斎で仕事を始めているはずだ。来客の予定など聞いていない。 胸を騒がせながら重厚な扉を開けると、そこには今の莉子にはあまりにも眩しすぎる人物が立っていた。「……莉子ちゃん」 柔らかい栗色の髪を風に揺らし、眼鏡の奥の垂れ目を細めて微笑む男 。 神宮寺蒼。 次期頭取候補と目されるエリートバンカーらしく、身に纏ったチャコールグレーのビスポークスーツには一点の皺もなく、手首で光るパテック・フィリップが彼の育ちの良さを物語っている 。月島家が没落した後も「僕だけは莉子ちゃんの味方だよ」と優しく手を差し伸べてくれた、もう一人の幼馴染だった 。「蒼……くん? どうして、ここが……」「探したよ。君が突然姿を消すから、心配で仕事も手につかなかった。……まさか、こんな男のところで家政婦なんて屈辱的な真似をさせられているなんて」 蒼は痛ましげに眉を寄せると、私の肩を優しく、けれど拒む隙を与えない強さで掴んだ。指先に込められた力は、彼の穏やかな口調とは裏腹に、歪んだ支配欲を滲ませている 。その優しげなルックスはまさに「国民的王子様」そのものだったが、一瞬だけ眼鏡の奥の瞳が、獲物を狙う蛇のように冷たく屋敷の奥を射抜いた 。「人の家の玄関先で、随分と騒がしいことだな」 背後から、大気を凍らせるような氷点下の声が降ってきた。 振り返る
「昨夜のキスよりは、マシだろう?」 耳元で囁かれたのは、甘い毒を含んだ意地悪な言葉だった。至近距離で見つめ合う瞳には、こちらの動揺を愉しむような、残酷な光が宿っている。「っ……そんなこと、今、関係ないはずです……!」「関係なくはない。お前の身体の隅々まで、俺の所有物だと契約書に書いたはずだ」 征也は氷嚢をソファに置くと、空いた手で顎を強引に上向かせた。 逃げ場のない視線の牢獄。吐息さえも共有するほどの距離まで、整った顔が近づいてくる。昨日、無理やり口の中に押し込まれた苺の飴玉の、逃れようのない甘さが、舌の奥で蘇るような錯覚に陥った。 顎を掴む指先に力がこもり、逃げ場を完全に断たれる。 その瞳は、いまにも獲物を飲み込まんとする昏い深淵のようだった。氷のように冷たい美貌の奥で、ドロドロとした熱い執着が脈打っているのが、触れ合う肌を通じて伝わってくる。「……どうした。昨日あれほど大胆に俺の口内に飴を転がしておいて、今さら淑女のふりか?」 低く、耳元をなぞるような声音。 昨日の口移しの感触が、唇の奥でじりじりと熱を帯びて蘇る。莉子は羞恥に顔を焼き、震える声で精一杯の拒絶を口にした。「あれは、あなたが……無理やり……っ」「命令に従っただけだ、と言いたいのか。従順なことで。なら、今この瞬間も俺の命令に従え。……俺を見るんだ、莉子」 不意に名前を呼ばれ、心臓が大きく撥ねた。 番号や肩書きではなく、かつての幼馴染として、あるいは一人の女としてその名を呼ばれる。それは今の莉子にとって、どんな暴力よりも深く心を侵食する毒だった。 征也は満足げに目を細めると、再び足首へと視線を落とした。大きく節くれだった掌が、腫れ上がった患部を包み込むように握り直す。氷嚢の冷たさと、彼の皮膚から伝わる火傷しそうなほどの熱。その極端な温度差に、頭の芯が痺れていく。「怪我をしてまで外の薔薇を眺めるとは。そんなに場所が恋しいか」「&hel
革張りの重厚なソファに沈み込んだ身体は、自分の意志では指一本動かせないほどに強張っていた。 視線の先には、この国の経済を動かす若き帝王、天道征也が床に膝をつき、足元に跪いている。没落したとはいえ、かつてはこの屋敷が建つ土地の主だった月島家の令嬢として育った身だ。それでも、これほどまでの屈辱と、そして背徳的な高揚感に襲われたことはなかった。 「……じっとしていろと言ったはずだ」 低く、地を這うような声が鼓膜を震わせる。 男は上質なスーツのジャケットを脱ぎ捨て、白いシャツの袖を無造作に捲り上げていた。剥き出しになった前腕には、日々の鍛錬を物語るしなやかな筋肉が浮き上がり、浮き出た血管が野性的な色気を放っている。その逞しい腕が、壊れ物を扱うような、あるいは獲物を逃さない捕食者のような強さで莉子の細い足首を掴んでいた。 「あ、の……社長。ご自分でなさらなくても、他の使用人の方を呼びますから……っ」 「黙れ。これは命令だ」 拒絶の言葉は、氷のような眼差し一つで叩き伏せられる。 征也は傍らに置いてあった氷嚢を手に取ると、躊躇うことなく腫れ始めた足首へと押し当てた。 「あっ……!」 あまりの冷たさと患部に走る鋭い痛みに、思わず短い悲鳴が漏れる。 反射的に身をよじろうとしたが、足首を固定する掌はびくともしない。それどころか、逃げようとする動きを封じるように、大きな身体がさらに距離を詰めてくる。 鼻腔を突いたのは、昨日も心を乱した、あの清潔で暴力的なまでに研ぎ澄まされた香りだった。高級な石鹸の匂いの中に、彼自身の体温と、微かな煙草の残り香が混ざり合っている。その香りに包まれるだけで、落下の恐怖で冷え切っていたはずの身体が、内側からじわじわと熱を帯びていく。 「……痛むか」 征也は顔を上げず、ただ足首だけを凝視しながら呟いた。 その横顔は驚くほど端正で、けれど冷酷なほどに無表情だ。長い睫毛が落とす影が、瞳の奥に潜む感情を巧妙に隠している。 「少
「怪我はないか」 「……たぶん。あの、下ろして……」 「断る。お前は今、自分の足で立つことさえ忘れているだろう」 その通りだった。膝の力が完全に抜け、体重を預けることしかできない。指先が、無意識にスーツの肩口を強く握りしめる。上質な生地の感触と共に、骨格の逞しさが伝わってきた。 「薔薇に見惚れて死にかけるなど、どこまでおめでたい頭をしている」 「……あそこに、お父様の薔薇があったから。どうしても、近くで見たくて」 必死の弁明に、不機嫌そうな鼻を鳴らした。 「……あれは、俺が買い戻した土地に勝手に生えていたものだ。処分し忘れていただけに過ぎない」 「嘘……。あんなに綺麗に手入れされているのに?」 問いただそうとした瞬間、瞳に暗い色が宿る。 「口答えをするな。お前はただの、俺の所有物だ。所有者が不要だと言えば、あの花もろとも叩き出すことなど容易いのだぞ」 突き放すような言葉。けれど見つめる瞳は、言葉の鋭さに反して、ひどく執着深くこちらを閉じ込めている。 没落して以来、常に自分を卑下して生きてきた。けれど今、腕の中で震えながら、生まれて初めて守られているという確かな感覚を覚えていた。支配しようとする強引さが、皮肉にも、孤独だった心を繋ぎ止めている。 「……っ」 不意に、左の足首にズキリとした鋭い痛みが走った。思わず顔を歪めた瞬間、征也の表情が瞬時に氷点下へと凍りつく。 「……どこだ。どこを痛めた」 「あ、いえ……なんでも……」 「隠すなと言っている!」 怒号がホールに響き、思わず身体を竦ませた。彼はそのまま、迷いのない足取りで歩き出した。 運ばれるたびに、腕の筋肉が固く隆起し、しっかりと身体を固定する。かつての細身だった少年はもうどこにもいない。一歩踏み出すごとに周囲を圧倒するような、重厚な生命力に満ちていた。 リビングへ入ると、大きな革張りのソファへと、壊れ物を扱うような慎重さで下ろされる。 「あ……ありがとうございます。もう大丈夫ですから」 逃げるように身体を縮め、痛む足を隠そうとした。けれど、こちらの言葉など最初から聞こえて
――ガツンッ、という衝撃を覚悟して全身を強張らせた。けれど、身体を貫いたのは硬い床の痛みではなかった。「……っ!」 低い、くぐもった呻き声が耳元で響く。同時に、強引に横へ攫われるような感覚。浮遊感が続いた後、背中と膝の裏に、驚くほど熱く頑丈な重みが食い込んだ。「……馬鹿か、貴様は」 地を這うような低い、けれど激しい怒りを含んだ声。恐る恐る目を開けると、呼吸が止まるほどの至近距離に天道征也の顔があった。「せ、いや……?」 帰宅したばかりなのだろう。完璧に整えられていたはずのスーツには深い皺が寄り、乱れた髪の間から覗く瞳は、いまにもこちらを射抜かんばかりに鋭く、焦燥に血走っていた。 お姫様抱っこの形で受け止めた腕が、ミシミシと音を立てるほど強く抱きすくめてくる。シャツ越しに伝わる荒々しい鼓動。早鐘を打つ自分の心臓と共鳴するように、力強く刻まれるリズム。「何をしている。……俺の目の前では、勝手に傷つくことさえ許すつもりはないぞ」 後頭部を支える大きな掌の熱さと、かすかな指先の震えが、内側にある本物の動揺を物語っていた。「ご、めんなさい……薔薇が、見えて……」「薔薇だと?」 征也の瞳がさらに険しさを増す。逃げ場のない腕の中。首筋に浮き出た血管、激しい呼吸に合わせて上下する喉仏、そして微かに混ざる煙草と体温が入り混じった眩暈のするような香り。死の淵から救い出された高揚感で、頭の芯がジンと痺れる。「あんなもののために、命を捨てるつもりだったのか」「枯れ落ちるだけのものじゃないわ……! あれは、お父様が……」「黙れ」 言葉を遮るように、顔が近づいた。額と額が触れ合い、熱い呼気が唇をなぞる。その瞳に宿っているのは、冷酷な支配者の色ではない。いまにも大切なものを失うことを恐れているかのような、必死な守護の眼差しだった。 没落してから、誰かに本気で怒られたこ
脚立の最上段。 震える爪先に力を込め、薄い腕を精一杯に伸ばす。 指先が触れたガラスは、昨夜の名残を透かすようにひんやりと冷たく、肌から体温を奪っていく。 拭い去るたびに、曇りの向こう側がまぶしいほど鮮明に色づき、世界が息を吹き返していく。 ふと、窓の向こうーーかつて月島邸があった空き地に視線が吸い寄せられた。 今は何もない広大な空き地の片隅、低い石壁に守られるようにして身を寄せ合う、一房の輝き。 雑然とした野原の中で、そこだけが切り取られた別世界のように、たおやかな大輪の薔薇が咲き誇っていた。 柔らかな桃色。その奥へ向かうほどに色濃くなる、蜜のようなアプリコットの階調。 幾重にも重なり合う花弁は雨の雫を大切そうに抱き、自らの重みに耐えかねるように、優雅にこうべを垂れている。 (アブラハム・ダービー……) 没落する前の生家で、何よりも慈しんでいた品種に違いなかった。 あの日、庭を埋め尽くしていた薔薇はすべて根こそぎ抜かれ、跡形もなく消え去ったはず。 十歳の誕生日に、父がわざわざ遠い異国から取り寄せてくれた、かけがえのない記憶。 家を追われたあの夕暮れ、冷淡な視線の中で真っ先に踏み荒らされた思い出が、なぜ。 かつての居場所だったこの土地で、再び命を宿しているのだろうか。 「お父様……」 無意識にこぼれた声が、静かなホールに溶けていく。 急速に潤んでいく視線の先、虹色に歪んだ景色に、温かな記憶が重なった。 剪定の仕方を教えてくれた、大きな手の温もり。 風に乗って運ばれてくる、蜂蜜のように甘く、芳醇な香り。 けれど、心を奪われた代償はあまりにも大きかった。 「あっ――」 ふわりと、足裏を支えていた確かな感覚が消えた。 窓の向こう側を覗き込もうと前のめりになりすぎた重心が、容赦なく身体を宙へと連れ出す。 ガタン、という無機質な金属音がホールに空虚に響き、視界が激しく反転した。 白い天井が、一瞬で遠ざかっていく。 指先が空を切る絶望感とともに、視界の端で揺れるカーテンが